放浪日記2006

筆・さいふうめい



2006年12月11日(月)
 
サントリー学芸賞の授与式がありました。
以前から、尊敬する大笹吉雄さん(演劇評論家)にご挨拶しました。
大笹さんの『日本現代演劇史』は授業で何度も使わせてもらいました。
大笹さんが、これでサントリー学芸賞を受賞されたのを知っていたので、少しでも大笹さんに近づけたかな、と思うとそれが嬉しかった。
また、山崎正和さんが、私に「あなたは、もう一つの名前で知っていたよ」と仰ってくださったのも嬉しかった。
私が、演劇と漫画の二ソクの草鞋は大変です、といったら、山崎さんは「私は三ソクだよ」と仰いました。
大きな仕事をなさる方には、いい雰囲気が備わっていて、それに触れるだけでも、これからもしっかり勉強しなくては、と気持ちを新たにすることができます。
お名前は一々記しませんが、本当にたくさんの方々が来てくださいました。
皆様、お祝いの言葉ありがとうございました。
私は本当に幸せ者で、幸せな時間を過ごさせていただきました。







2006年11月8日(水)
 
『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』(講談社選書メチエ)が、サントリー学芸賞(芸術・文学部門)を受賞いたしました。
元々、故・日下翠先生が勧めてくださった研究が、一冊になり、それがこんなに大きな賞をいただくことになるとは、夢にも思いませんでした。
これまで、マンガ・アニメは、サントリー学芸賞でも(風俗・文化部門)の扱いだったように思います。
私の、手塚論は(芸術・文学)部門での評価です。
漫画を、日本文化の水脈に位置付けようとした、私と日下さんの試みが認められて、本当に嬉しいです。
今回の成果は、先ず、日下翠さんのご仏前に捧げなければ、と思います。








2006年10月1日(日)
 
新百合ヶ丘で、『フラガール』を観ました。
胸を打つ映画ーー。
何より、蒼井優がいいな。フレッシュで、ひたむきで。
あんな芝居は、一生に一回しかできない。
この後、この人がどうなるかわからないが、この芝居はずうっと胸に仕舞っておこう。








2006年9 月23日(土)
 
『世界一受けたい授業』の収録で、朝9時に日テレに出張りました。
司会者の堺さんと話しつつ、モニター画像を説明しつつ、生徒たちに向かって講義をしつつ、その都度ディレクターの支持を受けつつ(「カンペ」で指示が来ます)、という感じになり、意識があっちに行き、こっちに行きという授業になります。

さらに、生徒たちは講師より、よほど喋り上手というのですから……。

自分なりにしっかり準備はしましたが、やはり放映はどうなることやら、という気持ちです。


人気番組を作っているスタッフたちは、完成度を高める執念が、全然違うな、と思いました。
仕事に対する誇りが人間を作るんだな、と思った次第。








2006年6 月28日(水)
 
NHK教育テレビ『中学生日記』の脚本を担当しました。
少年の性被害をテーマにしたドラマで、これを扱った番組は日本で初めてだと思います。 性被害者や、その専門家たち、そして中学生を実際に取材して書きました。 性被害を受けた人を「男性サバイバー」といいます。
NHKのディレクターが、男気のある男で、本当に根気強く伴走してくれました。 2週にわたって放映されます。

放送は 7月 3日(月) 19時〜19時30分 「誰にも言えない」(前編)   
     7月10日(月) 19時〜19時30分 「誰にも言えない」(後編)

再放送は、7月8日(土)、7月15日(土)、ともに10時45分〜11時15分です 。


 






2006年6 月12日(月)
 
6月11日(日)
「メガビ」の打ち上げで新宿に出張ったのですよ。
メカビってのは、オタクのオタクによる、オタクのためのムック本で、私もエッセイを書いているのです。
メカビには、麻生太郎外相とか養老孟司さんもインタビューを受けています。それは素直にわかるのでありますよ。
メカビには、森永卓郎さんもエッセイを書いていて、オタク批判に対する批判をしています。つまりオタク擁護ですね。で、森永さんにしては、筆法が鋭いのです。普段はソフトな森永さんらしくない。
私、実は、森永さんは以前からオタクではないかと考えていました。
というのも、「非婚のすすめ」とか「300万円時代」とか、無駄を省いてものごとをコンパクトに考えよう、という提案が、どうもオタク的だなと思っていたからです。
私は森永さんの「萌え」はポーズかな、と思ったりしていたから、カミング・アウトしたんだな、と気持ちがスッとしたのでありました。
ちなみに、私はメカビのエッセイに書きました通り、オタクを批判的に見ている人間じゃありません。「知りたい」という欲求は、いつかは「オタク的脳の使い方」になるという考え方をしています。
打ち上げで、久しぶりに米沢嘉博さんと会いました。コミケの総元締めをやっている人だと思っている若い人も多いことでしょう。米沢さんは、30年前から私がもっとも尊敬する漫画評論家です。私が、高校時代の卒業文集に、将来の夢を「漫画評論家」と書いたのは、米沢さんを意識してのことです。(もう一人、村上知彦さんがいます)
私、米沢さんのように、誰に対しても構えのない感じで生きたいと思うのですよ。
米沢さんは、私のように、ヒットする新書を書きたい、とリップサービスをしてくださいましたが。


 






2006年2 月9日(木)
 
「しばらく、放浪日記を怠っておりました。申し訳ありません。
昨12月からは、『週刊少年マガジン』で「少年無宿シンクロウ」の連載が始まっております。そのご案内もできないほどに、めまぐるしい日々を送っております。

『人は見た目が9割』(新潮新書)の書評が出揃いました。書かれた方に、お断りをしてはおりませんが、拙著への評なので、許して頂けるのではないかと思い、ここにご紹介させて頂きます。  

ちなみに、アルバート・マレービアンさんは現在もご活躍中で、ご自身で更新しておられると思しいホームページをお持ちです(有料で相談等も受け付けておられます)。また、翻訳書は、A・マレービアン著『非言語コミュニケーション』(西田司他訳)聖文社、の一冊が出ております。下記書評の中に、著者名の表記が異なるものがありますが、出自が確認できません。

これもお許しください。  もう一つ、2月10日に『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』(講談社選書メチエ)という本が出ます。この本は、本書は、手塚治虫がマンガ成立・発展のために果たした役割を検証し、マンガを日本文化史の中に位置付ける試みの研究書です。

手塚治虫が開拓した技法、方法論を通して、日本に何故ストーリーマンガが発生し、定着したのか、を論じました。まだ先学が手を付けておられない領域に踏み込んで書いたつもりでおります。

私は、劇作と漫画原作という二つの専門を持つ立場から、「非言語コミュニケーション」という概念の重要性に逢着しました。言葉を主武器にしながら、時として視覚的効果の方が、言葉より大きな力を持つ二つのメディアを、行きつ戻りつしながら、この10年ほどで考えたことを、二冊の本にまとめたことになります。

この本で、手塚はマンガの何を新しくしたのか、がより明確になっていると思います。これまであまり触れられておりませんが、手塚は演劇に打ち込んだ時期があります。そしてマンガ、アニメを生涯の仕事としました。私は、演劇とマンガを主戦場にし、自作がビデオ化、アニメ化されたことなどから、手塚の仕事の全体像を見渡せる珍しい立場にいるように思います。

また、手塚治虫が40年間身を置いた激しい競争原理を、体感している人間でもあります。競争の最前線に身を置いた者にしか書けないことを、書きあげた手応えはあります。今は私の熱が本を通じて、皆様に伝わることを祈るばかりです。




日刊現代
11月10日
米沢嘉博(評論家)

11月×日 往年の人気雑誌「少年」の付録付き完全復刻版が出たり、少年画報社が非売品ながら「赤胴鈴之助」などの単行本セットを配ったりと、マンガ界でも過去をまとめておこうとする仕事が増えてきた。
「火星探険」(旭太郎、大城のぼる)「タンク・タンクロー」(阪本牙城)などの復刻を手がけてきた小学館クリエイティブからは、楳図かずお画業50年として、デビュー作「森の兄妹」「底のない町」を皮切りに貴重な楳図作品お復刻が予定されている。石ノ森章太郎全集、「鉄人28号」完全版などの企画も進行中だ。
マンガ評論とか研究を生業にしていると、こうした本もとりあえず買っておくかということになる。一方では、おたくの祭典とか言われるコミックマーケットを主催していることもあって、今話題のアキバ系とか萌え産業についての取材もあり、ツンデレ系とかプニ系のマンガも読むことになる。
頭の中では過去と現実が混乱し始めている。元々、新刊書店は日に一度覗かないと気がすまないタチだし、古本マニアでもあるので、明治期のエッセーを読んだ後にマイケル・スレイドの新刊ミステリーを開くといった具合で、筋のよい読書などとは無縁の日々だ。 だから系統とか体系とか規範は自分の中にしかない。それでも大衆と表現という自分のテーマにはできるだけ引きつけて読むようにしている。そんな中、竹内一郎著「人は見た目が9割」(新潮社 680円)という、なんともケンカを売っているようなタイトルの新書を読んだ。人は90パーセント以上言語以外の部分でコミュニケーションをとっているという調査を前提に、非言語コミュニケーションの実際を平易に解説した本だ
演劇人でもあり、さいふうめいの名でマンガ原作も書く著者だけに、マンガや芝居を引用しつつ、表現やコミュニケーション理論を語っている。
日々の仕事や生活に役立つし、色々思い当たるところも多い。ぼくにとっては、ちょっとした講義のネタに使えるなと、考えているところなのである。

朝日新聞ベストセラー快読
2005年12月4日
永江朗(ライター)

 この世にテレビがなかったら、小泉氏が首相であり続けることはなかっただろう。だって、言ってることがハチャメチャだもの。イラク戦争の片棒を担いだときは「大量破壊兵器が見つからないから、なかったとは言えない」なんて答弁してたっけ。でも、見た目が「なんか世の中を変えてくれそう」だったら、とりあえずOKということか。『人は見た目が9割』と言われると、なるほどと納得するしかない。 人が他人から受けとる情報の割合のうち、「話す言葉の内容」はわずか7%。残りは、「見た目・身だしなみ、仕草(しぐさ)・表情」が55%、「声の質(高低)、大きさ、テンポ」が38%。アメリカの心理学者、アルバート・マレービアン(メラビアン)博士の研究結果なのだそうだ。だから、言葉以外で伝える技術や力も磨きましょう、というハウツー本である。著者は劇作家・演出家であり「さいふうめい」の筆名で漫画の原作も書いている。
 演出家として配役を考えるとき「見た目」で決める、という話が興味深い。顔の形によって法則があり、例えば丸顔は明るく、角顔は意志が強く、逆三角形は学者タイプ。これは「多くの人がそういう風に見ている」という先入観に基づいているのだそうだが、その先入観は映画やテレビを通じて「事実」として学習されているのだとか。メディアが「見た目」の先入観を拡大再生産しているわけだ。 ところで、大前提になっている「7・38・55」は、「メラビアンの法則」として知られる。矛盾した情報に接したとき、言語・聴覚・視覚のうち何を優先するかを調べた実験だが、博士自身がこれは限られた場面についてだけのもの、とクギを刺していたはず。
 この本が売れているのも、「言語情報」である書名がもつインパクトによるものではないか。ということは、本もタイトルが9割?

文芸春秋 1月号
2005・12.12
日垣 隆(作家・ジャーナリスト)

 タイトルが秀逸です。「秀逸」というありふれた言葉が情けなくなります。  日々誰もがそう思ったり、そうではないはずだと自問したりしてきた「言ってはいけない」核心をズバリ突いているというだけではありません。ご自分でやってごらんになればわかりますが、こういうズバリをたった八文字で表現するのは並大抵の智恵ではないでしょう。
同社のタイトルで言えば、著者(遠藤周作)が強く主張した「日向の匂い」が『沈黙』に変更されて大ヒットしたこともあれば、編集部全員の反対を著者(有吉佐和子)が押し切った『恍惚の人』の例もあり、一筋縄ではいきません。
少なくとも、タイトルが抜群なだけでは売れないものです。『人は見た目が9割』は、私が買ったのは二冊ですが、すぐ三十冊くらいまではいくでしょう。
新潮新書の超ヒット作『バカの壁』は、けっこうバカ本人たちが買いました。 いけね。間違えました。
『バカの壁』と違って、本書は看板に偽りがありません。そう言うと、まるで『バカの壁』が羊頭狗肉だったみたいな意味になりかねませんが、本論を評述するスペースがなくなるので割愛します。
誤解なきよう付け加えますと、<人は見た目が9割>とは、美男美女だけがモテる、という意味ではありません。
≪待ち合わせに遅れてきた女が男にこういう。「ごめん。怒ってる?」 男は「怒った」といいながら目が笑っている。こういう場合は、怒っていない。 逆に、「怒っていない」といいながら、目が怒っている場合がある。こちらの場合は怒っている。≫

このような意味において<見た目>が使われています。
政治家の討論番組などで≪相手の意見を否定するときには、殆ど腕組みがされている。腕組みは「その話は聞き入れられない」という態度の表れである。≫
子どもが「ハイ」でなく「ハイハイ」と言えば、たいていの母親は眉をしかめます。意思が正確に伝わったからです。
映画やドラマを見ていて、あっ恋に落ちたな、とか、ああまた誤解しちゃった、とか、主人公の奴やっと気づいたか!という場面では、そのことが直截に発話されていないのに、視聴者のほぼ全員がそれを理解することになっています。
探偵が殺人現場でニヤリとしたら、視聴者は同じことを推測するキマリです。あのニヤリには何の意味もありませんでした、では済まされません。
そのようの多くの人にそう受け止められる、というお約束事は、作り物の世界だけに通じるワザなのでしょうか?
本書に蒙を啓かれるのは、何よりもこの点です。 そのように大勢が受け止める、ということは、現実の世界でも、そのように表現し、そのように受け止められる可能性が極めて高い、ということになる……。
著者は、大学で教鞭を執っていたこともあり舞台演出やドラマだけでなく、劇作やマンガの原作も手がけている、という得がたいスタンスが、この本に充分な説得力を与えています。
「ショックの伝わり方」がアングルだけで変わるマンガの実例(七三ページ)や、"かわいい女の子"が「好きです」と告白するときの見つめ方(七七ページ)など、爆笑もんではありますが、けっこうショックを受けると思います。
鋭利な指摘も少なくありません。
≪話しかけるタイミングの悪い人が増えた。彼らは呼吸が上手くつかめないのである。私は、これはネット社会の影響だと考えている。≫
≪演劇のようなライブな表現活動をやっていると、受け手は完成品を欲しているのではなく、交流したいのだということがよくわかる。≫ さわやかに満足できる本です。


日本経済新聞
12月15日

「人を見た目で判断してはいけない」とか「外見より内面が大切」とよくいわれる。確かにそうだが、現実にはつい見た目の印象から相手に好意を抱いたり、逆に抵抗感を持ったりしがちだ。「人間、やっぱり見た目が……」と内心思っていても、声を大にしてはなかなか言いにくい。

世間で常識とされる見解とは逆の考えを説いた本が時々出版される。竹内一郎著『人は見た目が9割』(新潮新書、六八〇円)もその一つ。ただ、その種の本にはいかがわしいものが多いが、本書は「外見の威力」についてわかりやすく解説していて説得力がある。興味深いテーマに刺激的な書名も相まって、多数の読者を引き付けた。
著者は劇作家・演出家で、漫画の原作も書いている。同じ戯曲でも俳優の顔ぶれで大きく異なるという。そうした経験や漫画の図版を交え、見た目の違いによって印象が異なることを明かす。
本書で紹介されたある心理学者の研究によると、人が他人から受け取る情報の割合のうち、話す言葉の内容はほんの七%。残りは身だしなみやしぐさ、声のテンポ・質などが占めるという。言葉以外の要素が多くの情報を相手に伝えていて、「コミュニケーションの『主役』は言葉だと思われがちだが、それは大間違い」と著者は記す。その上でノンバーバル・コミュニケーションという言葉以外の伝達にもっと目を向け、その技術力を高めることを勧める。
本書は十月の刊行から二ヶ月で発行部数十五万部(十刷)を突破した。中高年男性のほか、「身だしなみに敏感な女性読者も多い」と担当編集者。男より女のウソがばれにくい理由や日本と欧米の女性のメークに対する意識の違いなど、女性を意識した仕立ても大ヒットの一因となった。


週刊新潮
12月29日
紀田伊輔(書評家)

帯に記された<理屈はルックスに勝てない。>のあおり文が、タイトルと相まってなんとも挑発的な雰囲気を発している。
こりゃきっと、美意識の錆ついた負け組どもをビシバシ叩く本なんだろうなあ、ジャージにサンダル履きの分際で「服装が乱れとる!」なんて抜かす体育教師とか、九八〇円ペラペラなネクタイ締めてるくせに「チャラついた最近の若者」を批評するオヤジとかを片っ端からシメまくり、「顔は男の履歴書だぜ」とブランデーグラス片手にビシっと決める、そういう本に違いない。OK。買っちゃう。なんだかすっげえ頼もしい。
しかし、中身は予想と違っていた。本書は「声のトーンや仕草、間の取り方などの非言語的な要素がどのようにして印象を左右するのか」という視点から書かれた、キャラクター造形と演出の指南書なのだ。
著者の竹内一郎は「さい ふうめい」の別名で、舞台演出や戯曲、漫画原作などを手がけている人物。阿佐田哲也の麻雀モノを少年誌向けにアレンジした『哲也―雀聖と呼ばれた男』(講談社 作画・星野泰視)の原作者であり、現在は「少年週刊マガジン」にて異色の渡世人漫画『少年無宿シンクロウ』を連載している。言葉と文章だけを武器にして、演劇や漫画といった視覚中心のエンターテイメントに携わる―そのような仕事を長年続けてきた著者が、物語や作中人物の印象を大きく左右する「非言語的な要素」に興味を抱いたのは必然といえる。
快活な少女にふさわしいポーズとは? 芸術家はなぜ髭を伸ばし長髪を結わくのか? テーブルで向かい合う二人。その座り方は親密さの度合いによってどう変わる? 人相と性格はどう関係している?
仕事を通して学んだ「それっぽく見せるためのツボ」が、惜しげもなく披露されている。そのキャラクター造形論・演出論にはともすればお約束どおりの紋切型と批判されかねないところであるが、たとえ紋切型であるにせよ、また、「眼鏡君は真面目」というのが単なる偏見であるにせよ、大多数の人間がそれをお約束として受け入れているという事実は、狙い通りの印象を与える上で大きな強みになるはずだ。無意識に受け入れてしまっている様々な事柄を指摘される度に、「あるある。なんとなくそういうことになちゃってるよな」とニヤついてしまい、なかなか楽しい。
挑発的な「見た目」のせいで「中身とタイトルが違う!」と批判されがちなのは皮肉だが、作り手と受け手の双方に向けられたエンターテイメント論として読むならば、充分に有益な本で書であるといえる。


サンデー毎日
2006.1.8
南 伸坊

「人間が伝達する情報の中で、話す言葉の内容そのものが占める比率は七%にすぎない」という研究結果が学問的に出ている。
.のだそうだ。それでは、どういうことで情報伝達はなされているのかというと、○見た目・身だしなみ・仕草・表情 五五% ○声の質(高低)・大きさ・テンポ 三八%  そして ○話す言葉の内容が七% と、実に九三%までが、ノンバーバル(言葉によらない)コミュニケーションによっているというのである。「まさか」と思う反面思いあたるフシもある。  本書は、そのノンバーバルコミュニケーション全般を、ざっと大ざっぱに、しかし具体的に、日本の実状に即して説明している。
 漫画の原作者であり、舞台の演出家でもある著者に、ノンバーバルの威力を痛切に感ぜざるを得ない立場にあって、その実感が、いわゆる心理学者のお手軽なハウツー本とは違う切り口を、切実に呈示していて面白い。
 漫画の原作は、文章によって書かれるけれども、漫画家はそこにノンバーバルな表現を与えることによって、二倍も三倍にも、いや理論的には最大十二倍弱にまでするのである。  そして演出家は戯曲に、ノンバーバルの味付けをするのが仕事である。つまり著者は、ノンバーバルがメシの種という人なのだった。「本は題名が9割」と言ってみたいほど、本書のタイトルはキャッチである。
 しかし、それはこのタイトルを自然に思いつくほどに、このテーマにうってつけの著者だった、ことの証在かもしれない。  バンバン売れてるらしいから私の出る幕じゃないのだが、面白かったので。


夕刊フジ
2006.1.11
金田浩一呂

書名がいかに売れ行きに影響するか。経済の初歩的な常識を説いただけの『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』のうれゆきを見れば分かる。
 この本も同じである。「人は見かけによらぬもの」とか「外見に惑わされるな」といった、 よく使われる言葉がすたらないのは、やはり多くの人は他人を見た目で判断しているからだろう。
 この書名は「人を外見で判断してはいけない」という教訓めいた言葉を一面では肯定しながら、心の底では信用してはいない人の気持ちを見事にすくい取っている。ひょっとすると「本もタイトルが9割」なのである。
 まあ、そういうことを書いた本だろうと思っていたが、話はもっと先鋭的で、幅が広かった。
 何しろ初めのほうで、人が他人から受け取る情報の割合について、「話す言葉の内容は7%にすぎない」という文句(脱線するが、最近のテレビなどは、なぜ同じ事を「文言」と難しく言うのか)が出てくる。
 何でもアメリカの心理学者A・マレービアン博士とかの実験結果で、残りのうち55%は顔の表情、38%が声の質(高低、大きさ、テンポ)だというのである。言葉は7%しか伝えない、というのだから驚く。しかし志ん朝(古今亭)の噺を聞いて笑っても、同じ噺が他の落語家では少しもおもしろくないことを思うと分かる気もする。
 デズモンド・モリスという動物行動学者が作った、動作の信頼尺度も出てくる。信頼出来る順に並べた1位が、緊張して動悸が激しくなったり、汗をかいたりする自律神経信号 (なるほど嘘発見器の根拠だろう)。言語は最も信頼できない7位に置かれている(ちなみに6位は表情)。

「さいふうめい」のペンネームで劇作、マンガの原作、舞台の演出をやっている著者自身、同じ戯曲が俳優や演出の違いで天と地ほども水準が異なり、マンガ家によって名作にも駄作にもなるという。
 93%を占めるという言葉以外の情報伝達(ノンバーバル・コミュニケーション)について、仕草や表情、間(タイミング)、行儀作法、顔色などいろいろな角度から語ったのがこの本である。
 ここには書いてないが、言葉で作られている文章も同じだろう。人はしばしば内容より、リズムや間の気合に踊らされる。孫引きだが、かつて鬼久保なる異名で恐れられた編集者、大久保房男氏が、気合の一つ、感嘆符について書いた文章の一節。
 「古池やかわず飛び込む水の音!/ほら、いっぺんに下品になった」。同感である。「文章も見た目が9割」らしい。


エコノミスト
2006.1.24
和田秀樹(精神科医)

脳ある鷹は爪を隠すではなく、自分を賢く見せないと生き残れない時代がきたとされている。私もその流れを痛感し、『「見せかけ」からはじめる速効ステップアップ仕事術』など何冊か、賢く見せる心理テクニックの本を書いてきたのだが、私の本はそれほど売れてなくても、樋口祐一さんの『頭がいい人、悪い人の話し方』が大ベストセラーになるなど、やはりそれを実感している人は少なくないようだ。
ただ、樋口さんも予備校の小論文の名講師であるし、私も臨床心理畑(精神分析では、医者は患者の後ろに座るため表情を見せない)ということもあって、賢く見せるための話のコンテンツや流れなどに重きを置いた本作りをしてきた感がある。それに対して、非言語コミュニケーションを通じて『見た目』をまじめに論じた本を見つけた。竹内一郎著『人は見た目が9割』(新潮新書、714円)である。
著者は比較社会文化で博士号をとった後、大学教員を経て、現在はマンガの原作や舞台の演出をしている人だそうだが、さまざまな心理学の知識(おそらくは独学なのだろうが、こういう人のほうが知識を実際に使っているので使える知識になっている)もさることながら、マンガのコマ割や舞台演出を通じての実例が非常に説得力をもつ。同じ戯曲やマンガ原作が俳優や演出、漫画家の力量で天と地の違いが生じるという経験によるのだろう。 アメリカの心理学者によると、人が他人から受け取る情報のうち、話す言葉の内容はわずか7%で、見た目が5割以上、声が4割とのことだ。
低くどすの利いた声でゆっくりと話す姜尚中氏が討論番組で場を支配し、坊ちゃん顔の若手代議士がだめというのは、自分のことを言われているような気がして(私は童顔で声も高く、早口である)辛いものがあるが、私が切実に感じるほどの真実だ。ただ、書かれている内容は納得できても、ビジネス場面でそのまま使えるものは少ない(もちろん、演出家志望、漫画家志望の人にはすばらしいテキストだ)。
この手の非言語コミュニケーションの知識は、知っておくとチョンボは減るはず。非言語コミュニケーションの国日本では、おいしい教養書といえる。


 









 


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